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2022年 2月21日 まち歩き川口・江之子島

「大阪の文明開化は江之子島、川口から」

NHK文化センター梅田講師 沖本然生

大阪府庁舎

初代 慶応4年(明治元年)初代の府庁舎は、中央区本町橋の旧大阪西町奉行所に設置していましたが、明治7年(1874)に江之子島に新築移転しました。新庁舎は高さ約30mの2階建て西洋建築でした。大正15年(1926)に現在の大阪市中央区大手前に移転するまで50年以上この地で大阪府政は行われた。

明治初期の大阪は西から発展してゆくと考えられたため、西側、つまり居留地側を正面玄関としていました。新庁舎は明治7年7月はじめに完成し、8日から6日間にわたって一般の参観をゆるしたが、正面玄関に4本の大円柱をならべ、屋上中央のドームに大時計をとりつけた西洋館の庁舎は、たちまち大阪の新名所となり、府民は「江之子島政府」と呼んだ。

 

大阪1889年(明治22年)

大阪府下4区を大阪市とし市制施行、市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。面積:15.27 km²、人口:約46万人

 

天満宮神幸御上陸地碑

天神祭りのメイン行事である船渡御は、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、今は大川上流に向いますが、明治期から昭和初期までの渡御コースは、大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す船渡御、陸渡御列だったようです。そのまま、松島に泊まった者も多かった。そのため「天神祭の朝帰りと」呼ばれた。

 

大阪市役所江之子島庁舎

マツダのこの場所に明治32年12月初めて市役所が建設された。その後45年に堂島、大正10年位現在の中之島、今の庁舎は4代目となる。

 

木津川橋碑

慶応4年(1868)に架けられました。外国人の居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け橋にもなりました。

 

川口居留地

慶応3年に開市され、翌慶応4年(明治元年1868)7月に大阪港が開港して、川口居留地26区画が外国人に競売され即日完売しました。それまで経済の中心地として栄えた大阪に期待を寄せた外面商人たちか殺到しましたが、大阪経済の衰退、港の不整備、厳しい取引監視などで商人たちはすぐに神戸へ移動します。

空家が目立つ居留地の洋館に居住し始めたのがキリスト教の宣教師たちでした。

26区画のうち20区画がキリスト敢闘係の住居・施設となり、居留地はキリスト教伝道の一大拠点になる。

日本聖公会川口基督教会が有名なのだがこの建物も1915年に再建される。

川口キリスト教会は布教活動の一つとして女子教育に力を注いでいて、そして作られたのが平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院

 

大坂船手会所跡(おおさかふなてかいしょあと)

大坂船手会所は、「出船干膿、入船干腹」と言われる程、船の往来が激しかった大坂湾から木津川・淀川への船舶の出入りや大坂湾に停泊している船舶を管理・掌握する大坂船宇の中心施設。船の管理を実際に行う船番所は、会所の北側と春日出、三軒家の3か所に置かれていた。18世紀代には船手頭が小豆島などの代官を兼ねることもあり、水都・大坂における幕府の重要な役職のひとつだった。ここが戎島の北端川口でした。慶応3年(1867)4月に「兵庫潜井大阪二於テ外国人居留地ヲ定ムル取極」が

幕府と諸外国間に結ばれ、川口に居留地が設けられることとなり、居留地に隣接する地域が内外国人雑居地として選定されました。居留地に選定されるや、「戎」の字が外国人を侮蔑する意味を持つことから、戎島は梅本島と改称されました。

 

安治川橋(磁石橋)

明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。

 この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。

 明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗し、よく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

 

川口基督教会

長崎から川口に移住してきた米国聖公会宣教師C.M.ウイリアムス主教が、明治3(1870)年に英学講義所を開校するとともに、英語による礼拝を行なったのが始まり。その後、同14(1881)年に教会が設立され、大正9(1920)年に現在の礼拝堂が建設された。阪神・淡路大震災では塔が倒れるなど被害を受けたが、現在は修復されている。

 

雑喉場魚市場

この辺りは江戸時代多くの堀川が流れていてさまざまな物資を運ぶ船が行き来していた。そのため昭和の初めまで魚市場があった。

堂島米市場・天満青物市場と並ぶ大坂三大市場のひとつ。もともと上魚屋町(中央区安土町)にあった魚問屋が徐々に集まり魚市場を形成、稚喉場の名前で呼ばれるようになった。規模を広げ、西日本最大の魚市場に発展。大阪中央卸売市場が開場する昭和6(1931)年までその歴史は続いた。

 

阿波堀川跡

阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区に造られた堀川の中ではもっとも古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀川から分流して西に流れ、百聞堀川に流入していました。

昭和31年(1956)9月、大阪府の防潮堤工事などのため全部埋め立てられました

 

2022年 1月17日 まち歩き堀江・新町

堀江 現在と江戸時代

沖本 然生講師

「北堀江から南堀江、堀江今昔物語」

大阪歴史案内人 沖本然生

本日は江戸時代(元禄)から現代までの南北堀江の街の変遷を実感していただく。

 

あみだ池 和光寺

あみだ池から仏像が出現し信濃善光寺の本尊になったという伝説は、難波の宮発見の山根徳太郎少年時代、真実を知ろうと歴史の学問に生涯をかけるきっかけとなった。明治22年南堀江生まれである。

和光寺は元禄11年、堀江新地開発とともに幕府から境内1800坪を賜り、信濃善光寺の末寺として建立された系譜を持つ。阿弥陀池自体はそれ以前から存在していて霊水が湧くありがたい池での池から仏像が出たという信仰があった。和光寺建立前から「阿弥陀池」そのものが信仰の対象となっていた。

その昔、蘇我氏と物部氏の崇仏論争により難波の堀江に捨てられた、百済渡来の阿弥陀如来を信濃の住人本田善光が難波の如来を善光寺如来として持ち帰り信仰が広まった。ただ、その時代はこの辺りは海でありこの考えは成り立たない。

 

堀江遊廓 大石順教尼(おおいしじゅんきょうに)

1901年(明治34年)、堀江のお茶屋(貸座敷)「山梅楼」(さんばいろう)の芸妓になり「妻吉」と名乗る。主人・中川万次郎が、妻が甥と駆け落ちしたのに激昂し、妻の家族や抱え芸妓へ楼内で次々と凶刃を振るった事件である。6人を殺傷。世に言う「堀江六人斬り事件」である。

事件に巻き込まれた妻吉は両腕を切断されながら、血の海に気絶。 一命をとり止めた。妻吉17歳の時。その後、松川家妻吉の名で旅の巡業をはじめるようになった。その間、自殺を考えます。しかし自殺すらも自分ひとりで出来ない身体で あるとき籠の鳥がくちばしでひな鳥に餌を与える光景を見たことをきっかけに、口で字を書く技法を習得し、1912年(明治45年)、日本書画家山口草平と結婚、しかし夫の不倫により、協議離婚し、身体障害者の相談を始める。子供を抱えて高野山金剛峰寺にて得度し、名を「順教」(じゅんきょう)と改める。以来、仏道の毎日を送る傍ら、1936年に京都市山科の勧修寺に移住し、身障者の相談所「自在会」を設立し、自分と同じ立場の身体障害者の自立を支援する福祉活動に励み、1947年(昭和22年)に佛光院を建立。1968年(昭和43年)死去。

 

堀江川

元禄11年(1698年)河村瑞賢により、長堀川と道頓堀川の中間の荒れ地に堀江川が開削されて堀江の開発が始まった。堀江新地は第二次大戦まで続く。15mから20mの川幅があった。この堀江地域は大坂城下では一番最後に開発され地域である。

 

藤井藍田(ふじい らんでん)の玉生堂跡

藍田は新撰組屯所が置かれた下寺町万福寺に幽閉された上、数々の拷問を受けた。妻の寿子や息子の卯右衛門が何度も釈放を願い出たが聞き入れられず、16日後に死体となって家族のもとに帰ってきた。

 

堀江金物江崎グリコ創立地

最近になってわかった。グリコ発祥の地。1921年(大正10年)江崎利一が大阪市西区にて合名会社江崎商店を設立。1921年から1925年まであった。その後豊崎に本社・工場。子供ずもうの景品400個、盆踊りグリコ。 人気を博したご馳走マラソン1200個のグリコのお菓子が無償提供

 

高台(たかきや)

橋、地域の名前。難波神社、仁徳天皇を祀っている。仁徳天皇が詠んだ歌

「高台にのぼりて見れば 煙たつ 民のかまどは 賑わいにけり」

江戸時代橋の名前を付ける際、民がこの地にあたるであろうということで名をつけた。時代がおかしい。

川を掘ったから北堀江、南堀江に分かれ、堀の農道と堀江が交わったところが高台橋(たかきやばし)大阪市歌にもタカキヤの名がある由緒ある名前である。

 

高台尋常小学校の碑

現、堀江中学校。以前高台尋常小学校であった。校内正門左に、高台橋の親柱が残っている。行政は容易に学校内に記念碑等を持っていくがこの地は江戸時代、紀州藩蔵屋敷跡。玄関門の中に高台橋の親柱が残さる。

 

勧進相撲

賭け事で風紀上の問題で江戸では中止になるが、大阪では四天王寺を建てる勧進相撲として成り立つ。新町、花柳街 遊郭と勧進相撲を結ぶ堀江を賑わす橋として賑江橋も勧進相撲で作る。大坂場所は春・秋二回13日間興行で、百米四方によしずを張りめぐらして行われたそうです。

昭和2年になって、江戸と大阪の相撲集団が合併して今の〝日本相撲協会″が設立された。また、〝三保ケ関〟や〝陣幕″〝押尾川″〝時津風″などの年寄名跡は、もともとは大坂相撲の部屋や頭取(大坂では親方のことを「頭取」と呼んだ)の名前。最初に行われた相撲興行では、開かれたばかりの堀江新地を買った地主さんたちも勧進元となり、その興行収入の一部を土地の購入代金に充当したといわれている。このときの10日間の興業収入は銀186貫目ということですから、約3千両、今で言うと約3億円くらい、それだけ大人気だった。

 

難波神社御旅所由加(ゆが)神社

元は岡山倉敷市の由加神社といい日本三大権現の一つ、また厄除けの総本山として知られ、江戸時代より由加大権現として人々の信仰を集めた。当時はここ大阪からも沢山の「講」を組んで岡山の本宮までよくお参りをしていたそうです。鳥居の向こうにマンションが見えますが、実はこの建物も含めた大変立派な境内地だったそうである。乙橘姫を祭っていた。橘が立花に変わる。

大坂城築城の折、難波神社が移され、その後由加神社は難波神社の御旅社となる。ただ第2次大戦後戦災で焼けた難波神社の復興のため、御旅所の大半を売り社殿を復興する。

 

関西電力発祥の地

大阪電燈株式会社が1889(明治22)年に、日本初の交流発電方式による高圧配電を始めた西道頓堀発電所の跡地だ。大阪発の事業用発電所でもあった。大阪電燈はその2年前、鴻池善右衛門、住友吉左衛門、藤田伝三郎ら名だたる豪商が金を出して設立した会社で、旧加賀藩邸を買い取って西道頓堀発電所を設けた。赤レンガの洋館に赤や緑の電灯を点滅させて人々を驚かせたという。ところが、肝心の電灯設置の申し込みはわずかで、劇場や料亭、お茶屋などに売り込んだ。これがお茶屋では逆効果。というのも、芸妓さんの厚化粧がばれるから。

 苦境を救ったのは1890年(明治23年)、新町を焼き払った火事だった。原因が石油ランプの不始末だったから、人々は電灯に飛びついたのだ。西道頓堀発電所もさぞフル稼働したことだろうが、1915(大正4)年に廃止される。13年(大正2)年、発電所隣にできた宇治川電気の道頓堀変電所がレンガ造りで、48(昭和23)年に役目を終えた後も倉庫として利用された。マンションは外観にレンガ造りの部分を取り入れ、土地の記憶を継承している。

モニュメントが小さいが自分の会社をどう思っているかが大事。以前はレンガづくりの立派であった。

川向いに難波のほうには東電があった。関西、宇治水力発電、ドイツ製60ヘルツ。東電は川向この幸町に火力発電でアメリカ製50ヘルツ

 

堀江立花通り

 

江戸時代から家具屋が多かった。しかし作り付けの家具、住居の多様化により家具が売れなくなってきた。そのため家具以外のお洒落なお店が増えてきた。

4月19日 知っているようで知らなかった大阪

大阪の地名の由来

自然環境

芦原(浪速) 鼬川とその低湿地に所在し芦(葦)が群生していたことから

生江(旭) かって荒生(なぎ)、南北に江「荒生江」、大正14年「荒」除く

曽根崎(北) 「ソネ」(曽根・埆)が名称の由来とされ、石が多くやせてしまった土地

梅田(北) 曽根崎二丁目今の樋の辺墓地の跡なるよし(由)。今も折り々石塔なぞのかけたる掘出す事ありとぞ。

田圃を墓とせし故、埋田の名、付るよし(由)」

大野(西淀川) 「大いなる野原」の意から。源義経が突風のためうち寄せられ立て直した。

大深町(北) 深(ふけ)は「深田」で泥深い田や低い湿地を意味する。東に「小深」南に「梅田」周辺一帯が低湿帯。

元JR貨物駅

石ヶ辻(天王寺) 石仏が立っており、それにちなむ。往古桃林や桑畑が広がる中に石がむき出しになっていたから。

遠里小野(住吉) 住吉より遠い所の原野。万葉集にも詠まれている。

蒲生(城東) 低湿地帯に生える蒲生が多く生えていた

烏ヶ辻(天王寺) この地に桃林が広がり、カラスが群生していたことから由来。

小松(東淀川) 砂地で小松が茂り、松山となっていたことが由来

細工谷(天王寺) 人間が細工したように浸食の谷間に富むことから付けられた

沢之町(住吉) 大正前は「沢之口」、周囲に浅い湿地(沢)が広がり、統治がその出口付近に位置していた。

清水谷(天王寺) 上町台地東斜面の谷地形でここから清水が湧いていた。

千林(旭) 古くは森小路、森口、に続く森林地帯。川沿いの森林の意で瀬林が転訛。

道修町(中央) かって道修谷と呼ばれたところから転じた。

南森町(北) 付近一帯は森が茂り、天満の森、大将軍の森などと呼ばれていた由来。北森町もあった。

森小路(旭) 古来からこの一帯に榎の森があり、その中に小路が通っていたからこの地名に。

人名 近世 開発者による

恩加島 小林、千島(大正) 千林の岡島嘉平次

北村、泉尾(大正) 和泉国踞尾村の北村六右衛門

平尾(大正) 平尾与左衛門

市岡(港) 市岡与左衛門 

津守(西成)  住吉神社 社家

加賀屋(住之江) 加賀屋甚兵衛、生まれは富田林貴志

道頓堀(中央) 成安道頓、平野

心斎橋(中央)  岡田心斎、伏見町人

桜島(此花) 埋め立て者島徳蔵と春日出、南新田にあった桜堤を合成

新喜多(城東) 開発者の鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の頭文字に由来する。

柴谷(住之江) 柴谷利兵衛、天下茶屋

島屋(此花) 島屋市兵衛

八幡屋(港) 文政12(1829)唐物町の八幡屋忠兵衛が開発

橋本町(阿倍野) 明治20年代、聖天坂、天下茶屋、その付近の開発に尽力した橋本兄弟の事業を記念

美章園(阿倍野) 大正年間「美章土地株式会社」を設立し宅地開発に努めた山岡美章の名前に由来

人名 古代

阿倍野(阿倍野) 豪族、阿倍 内麻呂(あべ の うちまろ)は大化の改新で左大臣

我孫子(住吉) 古代大和朝廷成立期「よさみにあひこ」が地名化

生野(生野) 舎利尊勝寺に伝わる「生野長者」の伝説から

味原(天王寺) 比売許曽神社の祭神下照比売命の兄である味耜高彦根命「味耜」による

逢坂(天王寺) 聖徳太子と物部守屋が互いに法比べた合法にちなみ合坂

柏里(西淀川) 神功皇后訪れた際、餅を柏の葉に載せ野咲の花束を添えて歓迎の意を表したとういう伝承。

花川(西淀川) 花束を添えて献上したさい「鼻川の里」と命名される。後に「鼻川」が「花川」に改められた。

神路(東成) 神武天皇東征時の通路であったという伝承

神山(北) 源融が嵯峨天皇追悼のため「神野大神宮」を建立。この神野が由来

堀越町(天王寺) 延暦7(788)和気清麻呂が河内平野の悪水を海に流す堀川を由来。

岸里(西成) 古代新羅系渡来人難波吉士が居住しており、吉士が岸

大道(東淀川) 古代の難波大隅島にあたり、応神天皇の大隅宮の大道が設けられたことに由来

太子橋(旭) 元の天王寺庄は聖徳太子が四天王寺建立の計画がさらに行基の橋からゆかりの町名

鷹合(東住吉) 日本書紀によると鷹の飼育地「鷹甘邑」と呼び後、鷹合に転じた。

高倉町(都島) 治承4(1180)高倉上皇が厳島神社に行幸した際立ち寄った河尻寺江がこの地という伝承。

田辺(東住吉) 古代、渡来系氏族「田辺史」が一帯を管轄していたのが由来

玉出(西成) 海神の豊玉彦に由来する

万代(阿倍野) 池に由来。聖徳太子が池に棲む魔物を鎮めるため曼荼羅経をあげ曼荼羅池それが万代池

宗教

王子町(阿倍野) 九十九王子の一つ阿倍王子神社

愛染坂(天王寺) 勝鬘院の「愛染さん」にちなむ

赤川(旭) 室町時代まであった天台宗赤川寺に由来

安堂寺町(中央) 古代の安曇寺(あずみでら)から転じた。音読みした「あんどんじ」

晴明通(阿倍野)  安倍晴明神社

清水(旭) 明治22合併の際産土神八幡大神宮、石清水の「清水」を村名とする

御祓筋(中央区) この道が中世の熊野街道で天皇が通過する際御祓いを行った。

舎利寺(生野) 飛鳥時代、生野長者の旧跡、「舎利寺尊勝寺」から

聖天下(西成) 上町台地上に「天下茶屋の聖天さん」がありその聖天さんの崖下に位置するから

菅原(北、東淀川) いずれも天満宮の祭神、菅原道真にちなむ

住之江(住之江) 古代から「住吉」「墨江」「清江」「須美之江」「墨吉」と表記された。いずれも「すみのえ」と発音

寺田町(天王寺) 四天王寺の寺田が所在したから

天王田(城東) 森ノ宮駅前にある鵲森杜宮の神田であった。

伝法(此花) 欽明天皇時代に仏教の経巻が初めて着岸しその法を伝えた。白雉5(654)法道仙人が来日。

堂山町(北) 太融寺のお堂があったので

国分町(天王寺、北)両方とも摂津国分寺が遭ったと言っているが証拠がない

播磨町(阿倍野) 王子町にある「播磨塚」に由来。」播磨塚は播磨守護であった赤松一族の遺跡

丸山通 町域にあった丸山古墳と呼ばれた円墳が由来。今は名だけ残り何も面影はない。

森之宮(城東) 鵲森宮の通称名に由来する。昭和48年からで古代からは「森」

夕陽丘(天王寺) 平安後期から日想観を修する場。藤原家隆が庵を建てその庵室は夕陽庵と呼ばれた

産業地名

網島(都島) モロコノ網干し場

猪飼野(生野) 「日本書紀」仁徳天皇14年条に「猪甘の津、朝廷に献上するの猪の飼育を任務とした。

瓦屋町(中央) 江戸時代大坂の瓦製造を一手に納めた寺島藤右衛門の中心地

茶屋町(北) 大阪から北に延びる街道筋にあり「鶴の茶屋」「萩の茶屋」「車の茶屋」の茶屋が並んでいた。

釣鐘町(中央) 三代将軍家光が大坂町中の地子銀を免除を宣言。それを記念して建てられた釣鐘屋敷に由来する。

博労町(中央) 馬医師、伝馬年寄の居住が確認できることから、伝馬に由来する町名

針中野(東住吉) 平安時代より針で有名な中野鍼灸院にちなむ。

悲田院町(天王寺) 四天王寺に付属した四院の一つで、貧窮孤独の人々が寄住し、飢渇を癒やす場所

伶人町(天王寺) 古代以来四天王寺の舞楽で奉仕する楽人達を伶人と呼ぶ。その居住地。

文化地名

江戸堀(西) 元和3年Z(1617)開削の江戸堀川にちなみ付けられる

京町堀(西) 元和6年(1620)伏見の京町から移住した商人が開削した京町堀川

喜連(平野) 日本書紀によると雄略天皇時代中国呉から渡来した手工業技術集団が居住した集落で「くれ」がなまって「きれ」

大隅(東淀川) 日本書記応神天皇22年条に大隅宮を置くという記事から

小橋町(天王寺) 仁徳天皇14年に猪甘津に渡した橋の名

春日出(此花) 開発は雑賀屋だが草むらから突然出てきた鹿が殺されたを嘆き春日明神の使いとして祀った。

片町(都島) 街道の北側だけに町並みが展開。京橋片原町、昭和44年に片町に

勝山(天王寺) 御勝山古墳から。元は岡山、徳川方が本陣を置き勝利したから。

空清町(天王寺) 空堀町と清堀町が合併。空堀は大坂城、清堀は清水谷と堀村が合併

北浜(中央) 「摂津名所図会」船場、今橋通の南側ばかりが町家で北は広き浜岸なり

久太郎町(中央) 「久多良」と書いて「くたら」と読んでいた地名を誤って「久太郎」と表記。「百済」の意味

久宝寺町(中央) かって久宝寺という寺院が存在した。

九条(西区) 元は林羅山が林羅山によって衢壌島(くじょうじま)と名付けられたが、1674年(延宝2年)の洪水の際に

九条家の木笏が漂着したことから九条島の表記に改められたとの伝承

杭全(東住吉) 古代より西除川、東除川など多くの川が合流、水中に打たれた杭に由来する地名

友渕(都島) 奈良時代は「鞆渕」、」かって水深のある港湾であった。「渕」がのち「友」に替わる。

長居(住吉、東住吉)埋め立てられた大御池が7から800年目に和歌に詠まれた長居池にあたると推定

湯里(東住吉) もとは湯屋島、往古には温泉が湧出してこれが地名の由来。大正14年(1925)に湯里に変更。

石町(中央) 古代において国府が存在し後、「こくふ」が転じ「石町」「こくまち」

古代において神功皇后が出陣の際休まれた石に由来する

粉浜(住吉、住之江)住吉浦の粉州と呼ばれた海岸低湿地。万葉集の「住吉の粉浜」から命名された

三軒家(大正) 元は姫島、開発当初は三軒しか無く中村勘助が開発し勘助島ともよばれた

昭和町(阿倍野) 「阪南土地区画整理組合」の造成が昭和4年に完成しそれを記念して。

新庄(東淀川) 戦国時代に茨木の中川清秀が新たな出城を築いたからに由来。

新町(西) 江戸のはじめ幕府が遊女を集め新たに町を作ったことに由来。

杉本(住吉) 古代この辺りは「よさみ」とよばれ、律令時代は大羅郷、大依羅神社の杉の木が地名由来

関目(城東) 中世に目で確認する関があったのが地名の由来

兎我野 日本書紀によると神功皇后摂政元年、反乱を起こした2人の皇子が狩りをした。

仁徳天皇38年、毎夜兎我野から鹿の泣く声が聞こえ哀れんだ。

長吉(平野) 古代「吉」は「え」と読む。「ながえ」と読み「長江」、この辺りを流れていた大和川を意味していた。

波除(港) 河村瑞賢が安治川を開削した土を積上げできた波除山の名による。山は明治末に消滅。

野江(城東) 「野」は野原、「江」は陸地に入り込んだ水面、室町時代に淀川の流水により低地に生まれた陸地。

野里(西淀川) 古来、「三野郷」と呼ばれたていたのが「野郷」が「野里」に転訛

樋ノ口町(北) 天保9年に天満堀川と大川のつながり、合流地点でそこに樋を造った。

文の里(阿倍野) 大正2年平野線開業時「文の里」駅。周辺に旧制高校、中学、女学校が集中する文教地域

松ヶ枝町(北) 鉄砲、弓奉行の同心屋敷跡、この地にあった松の大樹から名付けられた。

松虫通(阿倍野) 謡曲「松虫」の松虫塚が由来

桃谷(生野) 駅名から。明治28年は桃山駅、38年伏見桃山と混同避けるため桃谷に改称。

三国(淀川) 桓武天皇、長岡京造営時和気清麻呂に開削させた神崎川を三国川と呼ばれた由来から

焼野(鶴見) もと河内国茨田郡、ヨシの産地でヨシ焼きが行われていた野。